年中行事・神事
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1月1日 午前6時
歳旦祭(さいたんさい)
年のはじめに皇室の弥栄と国家・氏子の安寧を希う神事です。大晦日には除夜祭も斎行されて一年間を振り返り、来る新年に向けて清々しくお迎え戴こうと皆様方のお越しを心よりお待ち申し上げております。 また正月は授与所も開設し、破魔矢・お札などを受けに近隣地域から大勢の参拝者がお参りに来られます。
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4月6日 午前11時
祈年祭(きねんさい)・午後2時 御田植祭(おたうえさい)
午後2時本殿前に設えた御田植斎場にて御田植祭が斎行されます。
まず本殿に於いて祝言の儀(結婚式)で幕を開けます。新郎の種(たね)カルイとその妻となる新婦そして媒酌人役の御手引きが揃って神前に着座すると神職が祝詞を奏上し、続いて三三九度の盃を厳かに酌み交わし、偕老同穴の契りを結ぶ。このあと本年生まれる子どもの性別を占う為に媒酌人役の御手引きが一礼しておみくじを引く。祝言の儀が終了すると、いよいよ御田植斎場に移って神事は展開する。まずは馬鍬(モーガ)の行事である。牛使いと馬使いがそれぞれの牛と馬にモーガを引かせて代掻き(しろかき)を始める。奔放に暴れる牛と馬を「ホイホイ・ドウドウ」と懸命に制御しつつ、斎田いっぱいを掻いて廻りやっと代掻きを済ませる。やがて種カルイが種籾を入れた叺(かます)を棒で担ぎ、無言のまま登場。祭壇に叺(かます)を供えて徐に退場する。入れ替わりに田植神主が登場。祭壇の前でお祓いをした後、種籾をパラパラと蒔く。蒔き終えると恭しく祝詞を奏上して退場する。次は柄振り(えぶり)が、能舞台さながらに「かように候者は当所の者にて候。本日最上吉日にて神の御田植をやろうずるにて候。某(それがし)柄振りの役なれば御田を指して急ぎ候。」と口上を述べて登場。鍬を打ち振って斎田の均(なら)しや畦塗りの作業を済ませる。
馬鍬(モーガ)の様子やがて『苗配り子の歌(後記)』を全員で合唱し始めると、苗配り子2人は歌に合わせて祭壇前に進み、苗を積んだ籠を各自天秤棒で前後に担いで、横一列に並んだ早乙女たちのところまで運び、ひとりひとりに苗束を配って歩く。この間、音頭役を務める田植神主・柄振り・太鼓打ちの面々は、祭壇近くに並んで早乙女たちと向かい合う。太鼓打ちが「そもそも神主殿、吉き方に向かい、御幣を上げ声を立て」と大声で口上を述べるといよいよ御田植の本番となる。早乙女たちは向かい合った音頭役と『御田植歌(後記)』を交互に歌い合いながら一斉に挿し苗の手を動かす。かくて歌が終わるころは斎田は一面の青田に変わってしまう。
神事はクライマックスに達し、御子産(おこさん)の儀となる。媒酌人役の御手引きに付き添われたお中の大きな種カルイの妻がコビル用の握り飯を入れたハンギリ橋を頭上に捧げて登場。これを恭しく祭壇に供えての帰途、急に産気付き大仰な身振りで陣痛を訴え出したからさあ大変。参詣者一同笑い転げるうちにやがて出産と相成った。助産婦よろしく立ち働いた御手引きが赤ん坊を抱き上げて一同に赤ん坊の「男・女」を知らせる。御子産の儀が終了すると神職のお祓いによって斎田が清められ、御田植祭はめでたく終了となるのである。この由緒ある若宮八幡社の御田植祭を連綿と守り続ける中津屋地区は戸数わずかながらも保存会の御尽力によって老若男女相携えての神事奉仕であり、誠に尊い誉であると言えましょう。
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6月30日 午後3時
夏越大祓(なごしのおおはらえ)
半年間に知らないうちに積もりに積もった罪や穢れを人形(ひとがた)に託して清々しい夏をお迎え戴きます。
(人形や・車形は社頭にて準備しております) -
9月15日に近い日曜日 午前11時
仲秋祭(ちゅうしゅうさい)・午後2時 楽の市(がくのいち)
この日は仲秋祭と言い、親神様である京都石清水八幡宮の例大祭日でもある。昔は八幡別当の護保寺において放生会(ほうじょうえ)も行われた。藩候の代参もあり市中より笠鉾数本も奉仕された。この市を俗に農具市と称し、農耕に要する農具類が沢山出荷され、人出も多く賑わっていた。また楽打ちの奉納もあったので「楽の市」ともいわれている。
楽打ちの趣旨は色々伝えられている。出陣の戦勝祈願、凱旋の祝賀、天下泰平・国家安康、風災虫害防除、五穀豊穣を祈る……など様々であり、服装から見て南洋方面から来たものだとか、唱え詞に朝鮮語らしい発音があるので征韓の折りに朝鮮から移ったものではないか、また仏語が交じっているので念仏踊りの系統ではないか……などと言われている。この日、午前11時から本殿に於いて仲秋祭の神事が厳かに斎行される。午後2時に少年たちが神社下に勢揃いして、お祓いの後 世話役を先頭に笛2人、鉦2人の囃子方の囃子に従い、二列縦隊となって互いに踊りながら三の鳥居と神門との間55段の石段を上がっていく。神門に至って踊りをやめ、門を入り拝殿前の向かって左の広場に一同本殿に向かって二列横隊に整列し、世話役が「楽白須詞(後記)」を奏上する。終わって心楽2人を中心に他の端楽(はがく)20人は円形を作り、心楽(しんがく)の「ナーリーリー」という掛け声に応じて全員唱えて踊る。2回繰り返し次に今まで両手で打っていた胸前の太鼓を片手で打つ。これを「片撥(かたばち)」という。このとき心楽が双方入れ違いに飛ぶ。終詞を唱えて楽打ちは終了となる。
楽打ちの衣装は定紋付白衣に向う鉢巻、手甲、赤襷、革の腰ジョを着けて草鞋(わらじ)を履く。胸に太鼓を付け両手に撥を持ち、背には飾りのついた幟を負う。心楽2人はその先に色紙の細片が入った目籠がついて、籠のヒゴの編み残しを長く垂らす。鉦笛に合わせて太鼓を叩き、一同調子を合せて活発に踊り、端楽は徐々に円形に廻る。
楽白須詞・がくをもうすことば
楽打ちの衣装は定紋付白衣に向う鉢巻、手甲、赤襷、革の腰ジョを着けて草鞋(わらじ)を履く。胸に太鼓を付け両手に撥を持ち、背には飾りのついた幟を負う。心楽2人はその先に色紙の細片が入った目籠がついて、籠のヒゴの編み残しを長く垂らす。鉦笛に合わせて太鼓を叩き、一同調子を合せて活発に踊り、端楽は徐々に円形に廻る。
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11月23日「勤労感謝の日」 午前11時
新嘗祭(にいなめさい)・斗初穂(とはつほ)
新嘗祭
新嘗祭とは宮中及び全国の神社で斎行される収穫祭で、豊穣を祈念する祈年祭(春祭)[当社の場合4月6日]と対比される祭事であります。古来よりは11月の下卯の日とされておりましたが、明治6年の新暦採用から現在のように23日に改められました。遥か宮中に於いても「神嘉殿」にて天皇陛下自らが斎主となり神座・御座を設けて夕御饌(ゆうみけ)と朝御饌(あさみけ)の2回、天照大御神・天神地祇に新穀を供えて新嘗祭が斎行されます。春季大祭(祈年祭)・例大祭と共に若宮八幡社の3大祭のひとつであります。
斗初穂
若宮八幡社信仰の一つとして、氏子さんは初穂のお供えをして参りました。当社では米1升のお初穂を10年間続けて奉納(10升=1斗)した方に対して、参道に石碑を建てその志を永く顕彰して参りました。現在では米1升を3,000円に換算し、それに10年を乗じた30,000円で完了となっています。最近では10年を待たず一括または短期間での納付を希望される方も増えております。尚、斗初穂の御浄財は若宮八幡社での大きな修繕や出費等護持のための財源として一般会計とは別に「斗初穂特別会計」で経理しています。
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12月の第1土・日曜日
例大祭(れいたいさい)
第1日目/御下り神事(おくだりしんじ)
大神様を神輿にお遷しし、浜八人による渡御に始まります。頓宮(御旅所)まで凡そ200名の奉仕者による供奉。夕刻、神輿は頓宮に到着され、総代2名が参籠します。
第2日目/御上り神事(おのぼりしんじ)
頓宮から浜八人による渡御に始まります。夕刻、大神様は若宮八幡社にお還りになられ、2日間に亘る例大祭は無事に終了することになります。
若宮八幡社の牛馬市
古来、若宮八幡社の例大祭には頓宮前にあった特設会場にて牛馬市が賑やかに催されておりました。 天喜5年(1057年)3月生地村岳に、承安3年(1173年)9月中村に奉遷。このとき京都大納言藤原伊通卿より七日の市を許される。この市は日本三大牛馬市に発展する。勅許を得た市は九州でも珍しい。この行事は牛馬市へと広がる。この牛馬市は奥州白河・山陰大山の牛馬市とともに日本三大牛馬市として有名であった。
この市は承安3年(1173年)の放生会(ほうじょうえ)に7日間の市が勅許されたのに始まる。昭和30年代には数百頭の牛馬が出され、威勢の良い掛け声でセリが開かれていた。また昔流に伯楽(馬喰・ばくろう)たちが、洋服のポケットに指を突っ込み値を決めるのどかな光景も見られた。戦後、牛馬の出頭数が減ったとはいえ、遠く関西地方から買い付けに来てこの牛馬市はなかなか盛んであったが、現在は残念ながら執り行われていない。しかし地元有志の方々にこの牛馬市を復興させようとの動きも生まれており、年数はかかるかも知れないが是非ともこの歴史ある牛馬市を復興させてみたいものである。
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12月31日
年越大祓(としこしおおはらえ)午後3時開始
除夜祭(じょやさい)午後5時開始半年間に知らないうちに積もりに積もった罪や穢れを人形(ひとがた)に託して清々しい新年をお迎え戴きます (人形や・車形は社頭にて準備しております)
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毎月1日 午前6時
朔日祭(おついたち)
若宮八幡社の神様の御神徳に感謝申し上げ、毎月1日の神事にご参列になりませんか?
祭典後、紀田宮司との茶話会があります。撤下米と奉奠された玉串をお持ち帰りいただきます。